けめこの綴り帳

不良ばぁばの胸のうち

供養とは

父親の命日が5月19日で

今日は13回忌の法要がある

 

とっても不謹慎な話をします

適切な言葉が浮かばないので真意が伝わるかは微妙です

 

家族が亡くなるとまずお葬式はします

物凄い金額が飛んでいきます

その後、新盆やら三回忌やら13回忌やら33回忌やらあります

もちろん毎年お彼岸お盆には墓参りをして

命日にはお坊さんがお経を読んで供養してくれます

家の仏壇には供え物と花を欠かさず

時にお墓の修理が必要だったりもします

つまり

故人を悼むことには結構なお金がかかるという事。

それくらい当たり前だろうとは思います

そこをケチったらバチが当たるかもしれませんね😅

 

そもそもの話なのですが

亡くなった人を節目節目で供養しなければいけないのか?

という疑問を持ったことはありませんか?

自分の親であれば自分が存命の間は供養をするでしょう

そうやって先祖代々を家系が続く限り供養していくことになります

だって家には仏壇があるし、寺には墓があるから

そこにはご先祖様がいるのだから

 

持論ですが

いわゆるお金をかけてする供養は必要ないと私は思っています

言い方を変えれば

亡くなった人の為にお金を使う必要はない

もっと正確に言えば、

お寺やお墓や仏壇にお金をかける必要はない

ここまでくると宗教の価値観になりますね

そもそも宗教とは何か?

信仰とは何か?

供養とは何か?

 

父親とはいろいろな確執がありました

随分、迷惑をかけたし悪態をついたし喧嘩もしました

随分、迷惑をかけられたし顔も見たくないとも思いました

でもね

この12年、一日たりとも忘れたことはないし

毎日毎日、語りかけてきました、遺影の父親に。

それが私の供養。

 

ここからは私の妄想です

 

死んだらどうなるかなんてわかりません

とりあえず、肉体がなくなってもう会えない事は確かです

いわゆる消滅です

肉体は魂の入れ物みたいなもので

肉体がなくなったら魂はどうするんだろう

いや、魂というものがあるのかどうかも知らんけど

あるものと考えれば、もう魂は解放されて自由になるはず

 

私の感覚では

お寺での供養もお墓も仏壇も

○○という名のかつて存在した一個人を封印しておく儀式

のように感じるのです

いい悪いではなく。

つまり、生きている側の都合です

だから、忌ごとの法要をしないとか毎日仏壇に手を合わせないとか

そんなことで個人は怒ったり祟ったりしません😅

 

自分にとって大切な人お世話になった人が亡くなったら

自分が生きている間は、折に触れ故人を思い出し

ふと、昔を懐かしむ

それでいいのではないかと思っています

遅かれ早かれ、自分も同じ道を行くのですから

私だったら

家族の揃うリビングにでも一枚の家族写真を置いてもらって

出かける時と帰宅した時に声をかけてくれたらそれで十分です

気が向いたら花一輪でもお饅頭一個でも、泣いて喜びます😆

頑張って稼いだお金は

有意義な人生のために使ってほしい

 

毎年、父の命日が近づくとお供えをもって訪問してくる方がいます

いついらっしゃるのかわからないので、いつも留守中にお見えになって、玄関にお供えと名刺を置いて帰られます

「お父様には大変お世話になりました」

詳しいことはわかりませんが、12年間欠かさずいらしてます。

父は喜んでいるでしょうね

そして、この方の幸せを心から願っているはずです

 

ふふふ

家中バチバチ鳴ってますが

父親が覗きに来ているのかな

なーんてね

 

ではまた明日

穏やかな日曜日を!

おやすみなさい